新釈・源氏物語

 
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帚 木 〈一二〉
 源氏の君は、可哀想なことをしたけれど、もし逢わずにいたらどんなに心残りであっただろう、とお思いになっていらっしゃいます。 女が慰めようもなく沈んでおりますので、
「どうしてこんなに私をお嫌いになるのですか。 思いがけなくこんなことになったことこそ、前世からの宿縁と思われませんか。 まるで世間の男女のことなど知らないように泣いてばかりいでは、私のほうこそ情けない」
と恨み言をおっしゃるので、
「こんなに低い身分になってしまう前の、娘の頃の身で、このようなお情けをいただいたのでしたら、身の程もわきまえず、いずれは心から愛して下さることもあろうかと気休めにもするでしょうが、浮ついた一夜の出来事と思いますと、たとえようもなく苦しいばかりです。 こうなったことは仕方がありませんが、今はただわたくしと逢った(見き)ということは、誰にもおっしゃらないで下さい」
と、思い悩んでいるのも、無理もないことでした。 源氏の君も固く将来を誓い合って慰められたことも数多くあったはずでございましょう。
 鶏が鳴いて夜明けを告げています。 お供の人々も起き出して来て、
「ぐっすり眠り込んだものだな」
「御車を引き出せ」
などと口々に言っております。 紀伊の守も出てきて、
「女の方違えでもございませんのに。 こんな夜更けにお急ぎにならなくても」
などと言っている声も聞こえます。
 源氏の君は、こんな機会などめったにあるものでもないし、またやってくるということも出来そうになく、文など交わすこともむずかしいとお思いになりますと、胸を痛めていらっしゃいました。 奥から女房の中将が出てきて、困り果てておりますので、女君をお手離しなさろうとされては、またお引き止めになって、
「これからどうやってお便りを差し上げたら良いのでしょう。 世間に比べるもののないほど冷たいあなたの態度のつらさも、私の深い情も、生涯の思い出の中でも、それぞれ他にないほどのめずらしいことでしょうね」
と、お嘆きになるお姿も、言いようもないほどお美しいのでございました。
 鶏が度々鳴いて、気ぜわしくなってまいります。

    「つれなきを恨みも果てぬしののめに
            とりあへぬまでおどろかすらむ

 女は、こんなことになってしまったわが身を思ってみても、不似合いなことで恥ずかしい思いがして、身に余るほどのお扱いにも、何とも感じることも出来ず、いつもは愛想もなく好感も持てないと思っている伊予の介のことばかりが思いやられて、この出来事を夫が夢にでもみないだろうかと、恐ろしく身の縮む気がしていました。

    「身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は
            とり重ねてぞ音もなかれける

 見る見るうちに明るくなって参りましたので、女を障子までお送りになりました。 内も外も人騒がしいので、障子を閉めて、お別れをなさいますのもお心細く、この障子1枚を、お二人を隔てる関所のようにお思いになるのでした。
 女が去ってしまうと、源氏の君は御直衣などお召しになって、南の高欄に寄りかかられて、しばらくぼんやりとと外を眺めていらっしゃいました。 そのお姿を見ようと、女房たちが格子を上げて、覗いていました。 簀子縁の中程に立てられている衝立障子の上から、ほんの少しだけ見えているお姿に、身にしみるほどに惹かれている浮気な女もいるようです。
 月は西の空にまだ残っていますが、光はもう消えかけているのが、却って際だって見えて、なかなか風情のある明け方の眺めでした。 何気ない空の景色も、見る人の気持ち次第で、艶やかにも見えまた寒々しくも見えるものでございます。 人には言えないこお心の内は、たいそう苦しく、おの女に文を送る方法さえもないのにと、気を惹かれて振り返り振り返りしながら、紀伊の守の邸を後になさるのでした。
 左大臣の邸にお帰りになっても、すぐにはうとうとともお眠りになれず、二度とあの女に逢うことは出来そうもなく、その上女が昨夜のことを何と思っているのだろうかと、心を痛めて思いやられるのでした。
「格別に器量が良いというわけではないけれど、見苦しくないように取り繕っているのが、中流の女というものだろうな。 あらゆる女を見尽くしている者が言っていたことは、当たっていた」
と、思い合わせられるのでした。
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