新釈・源氏物語

 
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帚 木 〈一一〉
 源氏の君はぐっすり眠ることもお出来にならず、今宵はひとり寂しく寝るのかとお思いになりますと、ますます目が冴えておしまいになるのでした。
 この北側の障子の向こうに人の気配がするのを、「あちらがさっきの話の女が隠れている部屋なのだろうか。 気にかかるなあ」と御心を惹かれ、そっと起き出して立ち聞きしていらっしゃいますと、先ほどの子供の声が聞こえてきます。
「ねえ、どこにいらっしゃるの」
とかすれた声で可愛らしく申しますと、
「ここに寝ていますよ。 お客様はもうお寝みになったの。 ずいぶん近くにいらっしゃると思っていたけど、遠かったのね」
と言う女の声が聞こえます。 眠っていたようなぼんやりした声ですが、子供の声に良く似ていましたので、きっと姉の声だろうとお思いになりながら聞いていらっしゃいました。
「廂の間でお寝みになりましたよ。 評判の高いお姿を拝見しましたが、たいそうご立派でした」
と、少年は小声で申します。
「昼間だったら、わたくしも覗いて拝見させていただいたのに」
と、姉が眠たそうに言い、衾に顔を引き入れているような声が聞こえます。
「憎らしい、もっと真剣に話を聞いてくれれば良いのに」
と、少年は張り合いがない思いをしています。
「私は端のほうで寝ます。 ああ、なんて暗いんだろう」
と、燈火を掻き立てているようです。 姉君は、この障子のすぐ向こうに寝ている様子です。
「中将の君はどこにいるのかしら。 側に誰もいないと、恐ろしい気がして」
と申しますと、長押の下で、女房が寝たままで、
「下屋にお湯を使いに行っております。 『すぐに参ります』と申しておりました」
と答えます。
 みな寝静まっているようなので、源氏の君はこちらの掛金を引きあけてご覧になりますと、あちらからは掛けられておのませんでした。 几帳を障子口に立てかけて、燈火はうす暗くしてあり、透かしてご覧になりますと、唐櫃のようなものが置かれていて、散らかっています。 その中を分けておはいりになりますと、たいそう小柄な女がひとりで寝ています。 女はなんとなく煩わしく思いながらも、上に掛けた衾を押しのけられるまで、それを女房の中将の君だと思っていたようでした。
「中将をお呼びになっていらっしゃいましたので。 人知れずお慕いしていた甲斐がありました」
とおっしゃいますので、女は何が起こってのかわからず、恐いものに襲われたような気がして、「あっ」と怯えましたが、顔に掛かった衾が邪魔になって、声を立てることも出来ません。
「突然のことで、浮ついた気持ちからしたことと思われるかもしれませんが、長い間思い続けてまいりましたこの心の内を、申し上げてわかっていただきたいと思ってのことです。 このような機会がおとずれましたのも、決して浅くはないご縁なのだと思って下さい」
と、源氏の君はたいそう優しくおっしゃって、鬼神も荒立つことが出来ないようなご様子でいらっしゃいますので、「ここに人が」と見苦しく騒ぎ立てることも出来ません。 ただ情けない気持ちで、どうしてこんなことがと思うと、あきれ果てて、
「お人違いでございましょう」
と言うのもやっとのことでございました。
 女の消え入りそうな様子が、いかにも痛ましく、それを可愛らしくご覧になって、
「人違いなどするはずがないのに、わざと知らぬふりをなさるのですね。 浮ついた振る舞いは決していたしません。 ただこの思いを少し聞いていただきたいだけです」
とおっしゃって、小さな女なので、抱きかかえて障子の入り口に出ようとなさいますと、先ほど呼ばれていた中将らしい女房がやってまいりました。
 源氏の君が「あっ」と声をあげられたので、中将は何事かと怪しんで、手探りで近寄ってまいりますと、あたり一面に良い匂いが満ちて、顔にもかかってくるような気がいたしましたので、もしやと思い当たるのでした。 なんということでしょう、どうすれば良いかしらと、おろおろしてしまって何と言えば良いのかわかりません。 普通の人であれば、荒っぽく突き飛ばしも出来ましょうが、それでも人に知られてしまっては、困ったことになるでしょう。 胸もつぶれる思いで後をついて来るのですが、源氏の君は動じないご様子で、奥の御座にお入りになりました。
 障子を閉めかけて、
「明け方お迎えにまいれ」
と、おっしゃいました。 女君は中将の君が何と思うだろうかと、考えるだけで死ぬほど辛く、流れるほどの汗をかいて、たいそう苦しそうにしておりますので、源氏の君は可哀想にお思いになるのですが、それでもいったいどこから取り出してくるのだろうかというような甘い言葉をかけられるのでした。 やさしく情をこめておっしゃるので、女も心を惹かれないではいられないのですが、それでもこんなとんでもない出来事が情けなく、
「とても現実のこととは思えません。 ものの数にも入らない低い身分の者とお思いになって、このようなお扱いをなさっては、どうして深いお心と思えるものでしょうか。 私のような身分のものには、それ相応の生き方というものがございます」
と、源氏の君のこんな無理矢理な振る舞いを、心から情けなく辛いと思っている様子が可哀想で、気が引ける思いをなさいましたので、
「その身分相応ということもまだ知らない、うぶな恋心なのですよ。 それなのに、世間によくある浮ついたもののようにお思いになるなんて、ひどいじゃありませんか。 私の噂など自然にお耳にも届いておりましょうが、無闇な浮気心など少しもありません。 それなのにどうしたことか、こんなことになってしまって、あなたにこんなに蔑まれるほどの心の迷い、我ながら不思議に思うのです」
と、真剣な顔であれこれおっしゃるのですが、女は源氏の君の、世にまたとないほどご立派な姿であるほど、ますます心を許すことが苦しく、強情な女と思われようとも、むしろそんな女と思われようとして、冷たい態度をしていたのでした。 本当は優しい人柄なのに、無理に気を強くしておりましたので、なよ竹のように折れそうで折れないのでした。 本当に心苦しく、源氏の君の無茶な仕打ちを、ただ情けなく思って泣いている姿が、たいそう痛々しく見えます。
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