月は西に沈んでしまいました。
「雲のうへも涙にくるる秋の月
いかで住らむ浅茅生の宿」
と、更衣の母君を思いやりながら、灯火が芯をを掻き上げ尽くして (灯火をかゝげ尽くして) 消えてしまっても、帝はまだ起きていらっしゃいます。 右近衛府の役人が宿直の名乗りをするのが聞こえて来るのは、丑の刻(午前2時頃)になったということでしょう。 人の目を気になさり御寝所におはいりになるのですが、うとうととまどろむことさえお出来になれません。 朝お目覚めになられようとされても、「更衣がいた頃は、夜が明けたのも知らないで (明くるも知らで) 寝ていて、朝政を怠けていたものだった」と思い出されるのですが、今でもやはり朝政は怠られているようでございます。
お食事もあまり召し上がらず、略式の朝食にかたちばかり箸をお付けになられるだけで、昼の御座での正式なお食事などには見向きもなさいません。 給仕に奉仕する人々は皆、おいたわしいご様子をお見上げして嘆いています。 側近くにお仕えする者たちは、男も女も皆「ほんとうに困ったことだ」と言い合い嘆いています。 「こうなるほどの前世からの深い宿縁が、きっとあったのでしょう。 大勢の方々の悪口や恨みもおかまいなく、更衣のこととなるとものの道理も失念なさって、亡くなられた今となってはまた、政治をもうち捨てられたかのようになっていかれるのは、とんでもないことです」などと、他国の例までも引き合いに出して嘆き合うのでした。
月日が経って、若宮が参内なさいました。 この世の人とは思えないほど美しくご成長されているのをご覧になって、帝は「もしや鬼神に魅入られて早世してしまうのではないか」とご不安に思われました。
明くる年の春、春宮(皇太子)を定められる時も、一の宮を越えさせてこの若宮を立てたいとお思いになるのですが、御後見する者もなく、また世間の人々が承知しそうもないことなので、却って若宮に良くないこととお思いになり、顔色にも出さないようになさっていらっしゃいました。
「あんなに可愛がっていらっしゃっても、やはり限度というものがあるのだなあ」と世間の人々も噂し合い、一の宮の母女御(弘徽殿女御)もやっと安心なさるのでした。
若宮の祖母君の、故・大納言の北の方は、このことにも慰めようもないほど気落ちして「亡き娘のいるところを尋ねて行ってしまいたい」と願いつづけ、それが叶ったのでしょうか、ついに亡くなられてしまい、帝はこのことでもまた深くお悲しみになるのでした。 若宮も六歳におなりでしたので、今度はよくおわかりになり、祖母君を懐かしがられてお泣きになります。 祖母君も、長い間馴れ親しんでいらっしゃった若宮を、あとに残して逝く悲しさを、繰り返し繰り返し言いながら亡くなられたのでした。
若宮は、今は内裏にばかりいらっしゃいます。 七歳になられるので、読書始めをおさせになりますと、世間に類ないほどご聡明で、帝は空恐ろしささえ覚えられました。
「今はもう誰も、この若宮を憎むことはできないでしょう。 母親を亡くしたのだから、どうか可愛がってやって下さい」と言って、弘徽殿などにお出でになるときにもご一緒にお連れになり、御簾の内にもお入れになるのでした。 たとえ恐ろしい武士でも仇敵であっても、この若宮を見れば思わず微笑んでしまうほどのお可愛らしさですから、弘徽殿女御も冷たく突き放すことはお出来になれません。 女御には二人の内親王がいらっしゃいましたが、若宮の美しさにはとうてい及ばないのでした。 他のお后方も、若宮はまだ幼いので顔を隠したりはなさらないのですが、こんなに幼いうちからこちらが気後れするほどしっとりとした気品がおありでしたので、情趣が深く、気を遣わなければならない遊び相手と誰もが思っておられました。
漢籍などのご学問は言うまでもなく、琴や笛の音も宮中の人々を驚嘆させるほどの腕前で、ひとつひとつ数え上げればきりがないほど優れた御方なのでした。
その頃来朝した高麗人の中に、優れた相者(人相見)がいるというのを帝がお聞きになりました。 他国の者を宮中に入れることは、宇多の帝の御遺誡で禁じられておりましたので、お忍びで相者のいる鴻臚館へ若宮をお遣わしになりました。 御後見として付き添った右大弁が自分の子供のように見せかけてお連れして見せると、相者は驚いて何度も首を傾げています。 「この御方は国の親となって帝王になられる相をお持ちです。 しかしそうなると国が乱れ民が憂うことになるでしょう。 国家の柱石となって政治を補佐する御方として見ますと、それとも違うようです」と言います。 右大弁もたいそう優れた学者でしたので、二人の会話は興味深いものでした。
漢詩など作り合い、相者が、今日明日にも帰国するという時になってこのような類まれな相をお持ちの人と対面した喜びと、すぐに別れなければならない悲しみを情趣深く詠みますと、それに対して若宮もしみじみとした趣のある詩をお作りになりました。 相者はこの上もなく褒め称え、若宮に見事な贈り物を差し上げました。 朝廷からもたくさんのお礼の品が相者に贈られました。 このことを帝はどなたにもおっしゃいませんでしたが、噂は自然に広まって、春宮の祖父の右大臣などは、「これはいったいどういうことなのか」とお疑いになっていらっしゃいました。
帝は深いお考えから、若宮をすでに日本の相者にも見せていらっしゃり、若宮の相のことはご存じでしたので、これまで若宮を親王にもなさらなかったのですが、やはり高麗人の相者は優れていたとお思いになりました。 「外戚の後見のない若宮を無位の親王として寂しい暮らしをさせたくない。 自分の代がいつまでも続くものではないのだから、臣籍に下して朝廷の補佐役としたほうが将来も安心だろう」とお考えになり、若宮にはますますいろいろな学問をお学ばせになるのでした。 際だって賢く、臣下にするにはもったいないのですが、親王におなりになれば世間の人々の疑いをまねくようなことにもなりそうなので、宿曜(占星術)の達人に占わせても同じように申しますので、源氏の姓をお与えになるご決心をなさったのでした。
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